太陽を神格化した神であり、皇室の祖神のひとつとされる。『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神と表記される。別名・大日孁貴神。
『日本書紀』においては複数の神名が記載されているのに対し、『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されている。女神であるが、実は男神だったという説も存在する。天照大神という神名が、『皇太神宮儀式帳』など政治的な部分で用いられていることから、三品彰英や西條勉が論じているように、本来は高御産巣日神が皇祖神であり、ヒルメが皇祖神化して天照大神になったとする説もある。
伊勢神宮においては、通常は天照皇大神、あるいは皇大御神と言い、祭事の際神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神などとも言う。学術的な文書では現在では「アマテラス」と片仮名書きが慣行となっている。古くは天照太神と書かれたという説も存在する。
神話中では自分より先に生まれた天津神に行動の是非を伺ったり、その指示に従っている場面も見られることから、天照大神は神に祭祀を行って国を治める天皇自体の神格化だとみなす考え方もある。
また、古代の巫女の神格化であるという見方もある。別名の「ヒルメ」は「日の女」で、太陽神に仕える巫女のことである。太陽神は本来男神であるが、それに仕える巫女が太陽神と同一視され、女神になったとする説がある。また、女神であるのはこの神が成立したのが女帝である持統天皇の頃であるからという説や、現在では卑弥呼が天照大神のモデルであったとする説もある。
天照大神・ツクヨミの太陽・月の神の「目」からの誕生は道教の経典・教理書の『霊宝五符序』に「目を日月となす」、『業報因縁経』に「左の眼を日と為し、右の眼を月と為し」とあり、道教の強い影響を指摘する説もある。また、天照大神を祀る伊勢神宮の大神、神宮、斎宮、斎館、紫御衣(むらさきのみぞ)、明衣、幣帛、五色薄絁などの用語や、神宮を内宮と外宮とに分ける観念なども道教と一致しているという説もある。
比較神話学的には、天照大神らの誕生神話は、より古い時代に記録がある盤古神話とほぼ一致しているとの指摘もある。また両目を日月であるとみなすのはアジア一帯に広まっている普遍的なアナロジーであるため、先史時代の民族移動とともに日本に伝播した神話であるという説もある。
1880 - 1881年、東京の日比谷に設けた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった。神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神と天照大神の四柱を祀ることとしたが、これに対して「出雲派」は、「幽顕一如」を掲げ、祭神を「幽界」を支配する大国主大神を加えた五柱にすべきだと主張した。しかし、神道事務局の中心を担っていた「伊勢派」は、天照大神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立した。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。やがてこの論争は明治天皇の裁定により収拾し、天照大神の神格は最高位に位置づけられることになった。なお、政府は神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと言われている。神道事務局祭神論争参照。
芥川龍之介は自身の小説にて天照大神を登場させる際、別名の「大日孁貴」を用いた。これは「天照大神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまう事になるため、太陽神、それも自然神という性格付けで「大日孁貴」を用いなければならなかったためである。実際、芥川の小説には軍の検閲によって訂正・加筆・削除を余儀なくせざるをえなかった箇所が多数存在する。
金鶏学院を設立した安岡正篤は「日本には天照大神の信仰がある。天照大神とは日本精神を以て世界を光被しようという理想である。」、イザナミ・イザナギの「「いざな」というのはいざなう、換言すれば世界民族の先覚者、先駆者、誘導者となって行こうという理想である。」と述べている。
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